うちの子が通ってる学校で授業参観がありました。
科目は珍しく道徳でした。今回先生が題材に選んだのは「モチモチの木」と言う絵本です。
この話はたぶん多くの方が知っている話でしょう。
なかなか勇気が出せない主人公の男の子が、おじいさんの病気をきっかけに勇気を出すと言う話。
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==========================[72回]
話のあらすじはこうです。
父親のいない少年「マメタ」は、山小屋で「ジサマ」と暮らしている。
マメタは臆病者で、小屋の外にある便所にも夜は怖くて一人で行くことができない。
その小屋の近くには大きなトチノ木があって、マメタはその木のことを「モチモチの木」と呼んでいる。
モチモチの木は、夜に火が灯ったようにきれいに光る事があり、マメタの父親もジサマもそれを見たことがあるという。
マメタも見てみたいと思うものの、夜は怖くて見に行く事ができずにいた。
そんなある夜寝ていると、ジサマがうなる声でマメタは目を覚ました。
ジサマは腹を押さえて苦しんでいる。
何とか助けたいと思ったマメタは、月明かりしかない怖い夜、霜で凍った道を裸足でふもとの村まで一人で医者を呼びに行く。
医者を呼んで山小屋に戻る途中、マメタはモチモチの木に火が灯って、明るく輝いているのを見た。
翌日回復したジサマは、マメタの勇気をたたえた。
と言う話。
今回行われた道徳の授業では、「大事な人のために勇気を出さなければならない時がある。」
「勇気を出して行動すれば、きっといいことがある。」
と言う感じの方向でした。
授業を受けていた子ども達は、周りの人への優しい心と、難しいことにも一歩踏み出す勇気を再認識していたようです。
いい授業でした。
で、今回の話は、その授業を聞いていた、ひねくれた私の話です。
モチモチの木の話を聞いていた時、ふと疑問を感じてしまいました。
どうしてジサマの腹痛は、モチモチの木に火が灯る日にタイミングよく起こったのか。
モチモチの木に火が灯るのはいつもと言うわけではないはずです。いつも見れるのであればそれが見れたことが話題になるはずがありません。おそらくそれが起こるこには一定の条件があるのでしょう。
例えば冬至前後の満月の日とか。山と山の間からちょうど月が顔を出す瞬間とか。
地形や気象条件、天文学的な暦によってそれは実現するのだと思います。
ジサマはそのタイミングを知っていて、その日に合わせて腹痛になったフリをしたのではないか。
しかも、火が灯ったように見えるためには見る方向があるはずです。
おそらくそれは小屋や便所の方向からではなく、外から小屋に戻って来る方向で見えるのでしょう。
でなければ今まで夜に便所に連れて行ってもらう時に、見れるタイミングが有ったはずですから。
だからこそ普段の生活の中ではなく、外から帰ってくるシチュエーションが必要だった。
実際マメタは医者を呼びに行く時ではなく、医者を呼んで小屋に帰ってくる時に火が灯ったモチモチの木を見ている。
こういった条件を知った上で、ジサマはマメタに勇気を出させ、勇気を出せばいいことが起こる(火が灯ったモチモチの木が見れる)と言うことを体験させる事で、勇気を出す事を恐れない人間に育てようとしたのではないか。
そう考えてしまう私は、やっぱりひねくれているのかなぁと自問自答しながら話の続きを聞いていたのですが、ラストシーンでその疑いはかなり確信に近付きました。
なぜなら、一晩でケロッと治ったジサマは、マメタの勇気をたたえ、勇気を出す事のすばらしさと重要性を説いたのですから。
もし本当に苦しい状態に陥って、マメタが医者を呼んでくれたおかげで回復できたのであれば、ジサマはマメタに感謝の気持ちを伝えるはずじゃないのか。
「マメタが医者を呼んでくれて助かったよ。マメタは本当にいい子だねぇ。ありがとう。」
とか言うのでは?
なのにジサマは勇気をたたえる方向に話を持っていった。
まぁ、例えジサマの腹痛が狂言だったとしても、それが悪いと言っているわけじゃないんです。
ジサマは見事、マメタに勇気を出させる事に成功したわけですから。
でももし実際に自分の子供に勇気を持たせるための指導をしたい時、同様に狂言を使っていいものかどうかと思うのです。
個人的にはNOなんですが。
皆さんはいかがでしょうか。
それと新たな疑惑が浮上してきました。
ジサマはこの手法をマメタの父親である自分の息子で、既に経験済みだったのではないかというもの。
父親が健在であれば、この指導は父親の役目であるはずだが、今はいない。
だから、自分がその指導をしなければならないが、相手は息子の忘れ形見の大事な孫。
その孫であるマメタが臆病者から脱却しないまま自分が死んでいくのはやはり忍びない。
何とか自分が生きているうちに勇気を持った人間に育てたい。
とは言えこのミッションを実行するとなると失敗は許されない。
もし失敗してしまった場合、それを修正できる時間は、果たして自分に残されているのか。
そう思うと、例え狂言であっても勇気を持てるような指導をしてやりたいと言う衝動は起きたはず。
が、うまくいくかどうか分からない未経験の手法はできるだけ避けたかった。
そんな時かつて自分の息子が勇気を持つきっかけになった経験を思い出した。
既に自分の息子は亡くなっているので、同じ手法を使ったとしても自分の息子の勇気の源を揺るがす事も無い。
それをいい事に、一度成功した経験を活かし、実行に移したのではないか。
もしかしたら自分の息子の時には狂言ではなかったかもしれないけれど。
やっぱり私はひねくれているのか。
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